ピアニストで作曲家のハービー・ニコルズ
は、ジャズ史にはわずかにビリー・ホリデイ
の歌で知られる「レディ・シングス・ザ・ブ
ルース」の作曲者としてその名をとどめ、小
説家の尾崎翠は、文学史にはわずかに「第七
官界彷徨」の作者としてその名をとどめてい
るに過ぎないけれど、ふたりの真価はもちろ
んそれにとどまるものではない。
ただ、このふたりの名を、どちらか片方だ
けでも憶えているひとがどれだけいるだろう
か。ましてやそのアート(人生もアートの一
部である)に魅了されているひととなると…
…。しかしそんなひとは少数ながら確実に存
在するし、その魅力が特定のひとにだけ開か
れているというわけでもない。ただ単に、そ
の入口があまり目立たないというだけのこと
なのだ。道端に咲く花の美しさにそれは似て
いる。
ワンフレーズを聴くだけで時空を越えた別
世界に連れていってくれるピアニスト。ワン
フレーズを読むだけで切なくて優しい時間を
体験させてくれる小説家。
詩人の名に値するピアニストはハービー・
ニコルズの他にはポール・ブレイしかいない
と私は断言するし、そんな小説家は尾崎翠の
他にいないことはないけれど、彼ら(例えば
カフカやボルヘスや石川淳や中島敦や)はあ
の切ない懐かしさを私に感じさせてはくれな
い。
ハービー・ニコルズは誰よりも孤独なピア
ニストだと私は思うし、孤高の天才とは彼の
ためにある言葉だと思う。しかし、その天才
は決して冷たく鋭利なものではなく、どこか
くすんでいて優しく素朴な印象がある。音楽
からそのひとの鼓動が聞こえてくるのだ。異
世界の言葉を自分の血肉として語る才能はま
さに天才という他はない。鋭利なだけが天才
ではないのだ。
そんな芸術家によって表現された音楽は、
唯一無二で、しかも初めて聴くのに懐かしい
という矛盾した魅力を併せ持つことができる
。この言説は、やはりとびっきり孤独で、朴
訥な華やぎと優しさを持つ希有の小説家、尾
崎翠の文章にもそのままあてはめることがで
きるのではないかと私は思う。
ところで先年、ポール・ブレイさんとお話
できたのが私にとって一生忘れられない経験
になったように、もし同時代に生まれていた
ら私はこのふたりに会うことになったのでは
ないか、と空想することがある。
ただ、ここで注意しなければならないのは
、その天才にもかかわらず、表立ってふたり
を褒めすぎてはいけないということだ。それ
はマイナーな芸術家に対する礼儀であると私
は信じている。あまりにも称賛の光を浴びせ
すぎると、彼らは姿を現してはくれないよう
な気がする。ひそやかな思慕、そして親しみ
。そしてそれを外から検証するのも忘れない
こと。それが彼らとつながりを持ち続けるた
めに必要なことだ。
ハービー・ニコルズはその音楽の他に、残
された数少ない肖像と発言が私にいろんなこ
とを伝えているように思う。それで良い。
そして、尾崎翠の故郷、鳥取の岩井温泉で
その想い出を守り続けるあの方(女性)は、
「翠さんは時を越えた私の恋人」という私の
わがままを優しく許してくれた。その方と、
「素晴らしい小説家だけど、あまり褒めすぎ
たり、女性性ばかり言い立てると本人はそん
なんじゃないわよ、ってどこかに隠れてしま
うようなひとだったんじゃないかな」なんて
愉しい会話までしてきました。愉しみの会話
で悼む死者、ということでしょうか。
その上、岩井温泉の気配は初めて訪れたの
に、まるで私の心の故郷のようでした。あれ
と同質の感覚は先日、詩人ランボーの故郷シ
ャルルヴィル・メジエールでも味わってきた
のですが。
血のつながっていないひとのお墓参りをし
たのもあの時が初めてでした。鳥取市の養源
寺で翠さんのお墓に花を供えて、「ここなら
静かにやすめますね」とつぶやいた時、涙が
流れました。
ちなみに、去年の私の個展「旅のはじまり
」の案内状に載せた窓の写真は、この、養源
寺の入口にある喫茶店を写したものなのです
。翠さんが私に見せてくれた特別な景色と言
えましょうか。
ふたりとも、すでにこの世を離れて永遠の
時間の中に生き続ける芸術家なので、受け手
の私にはそんなおつきあいが許されるような
気がします。受け手を深く優しく魅了するひ
となのです。芸術家のひそやかな栄光と言う
べきでしょう。
ともあれ、ハービー・ニコルズのCDまた
はLP(リーダーアルバムは四、五枚しかな
い)と尾崎翠の本(全集にしてわずか二巻)
の両方をお持ちの方、そしてこのふたりのア
ートを心から慈しむことができる方、もしそ
んな方がおられるなら、全てに疲れ切って何
もかも放り出したくなった時、深夜になるの
を待ってこのふたりと同時に話をしてみて下
さい。時間のない別世界を旅することができ
ます。厳しくも甘美で懐かしい、決して涙で
曇っていない優しい不思議世界です。
私が私を離れてどこでもない場所を旅する
のです。お酒にたとえてみれば、きどらずに
そっと味わう極上の蒸留酒でしょうか。
そう言えば、この前生まれて初めて白樺の
樹液を口にした時、あまりの快楽に舌が一瞬
しびれた。そして私の味覚そのものが根本的
に変わってしまった。あるいは目覚めてしま
った。あの体験をも私は思い出しています。
追伸、文中の「旅のはじまり」の案内状に 載せた写真をここにも載せておきます。