ピアニストの孤独、写真家の孤独
毎年、暑くなってくるとどういう訳かピア
ニスト、加古隆の「ソロ・コンサート」とい
うアルバムが無性に聴きたくなる。そこで毎
晩、寝床に横になって灯を消してからこの音
楽にひたることになる。
このアルバムは実に涼しげで、私の夏のお
気に入りなのだけれど、とりわけラストに収
められている「グリーンスリーヴス」は、私
の知る限りではこのアルバムが最高の演奏だ
と思う。
ついでに言えば、冬に聴く最高の「グリー
ンスリーヴス」は厳しくも美しい音色で奏で
るアルトサックスのポール・デスモンドがM
JQ(モダンジャズ・カルテット)をバック
に演奏した録音、四季を通してその次点はピ
アニストのレイ・ブライアントがやはりソロ
で録音したもの、ということになる。
ところで、この加古隆のアルバムのライナ
ーノーツには、彼自身のコメントがいくらか
引用されているけれど、そこに少し気になる
発言がある。クラシックからフリージャズを
経て、正に自由と円熟に達したピアニストが
、「ピアノの音色の美しさを楽しんでもらえ
ばいい」と淡々と語るのである。
もちろん私はこれにいちゃもんをつけよう
というのではない。ピアノを美しく鳴らすと
いうことは、ピアニストを名乗るための最低
限の(あるいは究極の)条件であることは明
らかなのだ。この発言は音楽家としての加古
隆の自信とプライドの表明なのである。ただ
、この発言がそのように成立するところに、
私はピアノという楽器の際立った特徴をかぎ
つけてしまう。
例えば、チャーリー・パーカーやオーネッ
ト・コールマン、あるいは先ほど名を挙げた
ポール・デスモンドでさえ、「アルトサック
スの音色の美しさを楽しんでもらえばいい」
という発言をもししたとすれば、それはかな
り奇妙に聞こえるのではないか?
この違いは、ピアノよりもアルトサックス
のほうがより肉体に近い楽器である、という
ところに起因すると思う。アルトサックスで
は、自分の音色を持つということはピアノよ
りもずっと当たり前のことなのだろうと私は
思う。プロのサックス奏者はその上で自分の
音楽を創り上げる。
ここからさらに想像をたくましくして、も
し、写真家が同様の発言をしたらどう聞こえ
るだろうか。「カメラと感材の描写の美しさ
を楽しんでもらえばいい。」
こんな発言をする写真家というのももしか
したらいるのかも知れないが、それは噴飯も
の、物笑いのタネにしかならないだろう。ピ
アノと違って写真の場合は、教科書通りにや
ればそれは誰にでも可能だからだ。
どうしてこんなに事態が逆転してしまうの
か?
以前読んだ養老孟司氏のエッセイの中に、
ピアノを支配している平均律という規則は、
耳のある部分の構造に正確に対応していると
いった意味の記述があったように記憶してい
る。とすると、平均律に最も忠実で、しかも
肉体からやや離れた楽器であるピアノを鳴ら
し切ることは、音楽そのものと切り離せない
関係にあるのかも知れない。そして、ピアノ
に限らず楽器を鳴らし切ることがいかに困難
なことか、それは音楽家でない私にもよく分
かる。その困難に比べれば、写真機材の性能
を充分に引き出すことなど実に容易なことな
のだろうと私は思っている。
では、そんな写真がほとんどの場合、全く
つまらないのはなぜだろうか。そんな写真は
情報を記録することは出来ても、魅力を伝え
ることはまず出来ない。
私は、写真はピアノ以上に肉体から離れた
メディアであると考えている。ピアノを支配
する平均律は、肉体のある部分に忠実であっ
ても、最新のテクノロジーで磨き抜かれた現
代の写真に宿る法則は、結局肉体と相反する
ものなのだろうか。写真を支配する法則は、
ある部分では過剰であり、ある部分では不足
しているのだろうか。よく分からない。
最後に付け加えると、森山大道は、「僕の
写真が他人にどんな印象を与えようが、僕と
してはまず堅牢なカメラときちんと写るレン
ズが欲しい。」という意味のことを述べてい
る。これは、キース・ジャレットや山下洋輔
といったピアニストが異口同音に語る、「ス
タンダードを演るときは、きちんとその歌詞
まで調べる。そして崩していく。」という意
味の発言を私に思わせるところがある。
結局、写真家もよく分からない孤独の中を
誠実に生きるしかない。そのことに関しては
皆同じなのかも知れない。