ヴァージン・ビューティー

よく言われることだけれども、「処女作に はその作家の全てがある」という考え方は私 は嫌いだ。これはきっと怠惰な批評家が言い 始めた言葉にちがいない。
 そもそも処女作というものでさえ、一体何 を指すのか考え始めるとそう簡単には答えが 見つかりそうにない。
 とりあえずそれは措くとして、処女作なる ものに認められるのは、初めて陽の目を見た 作家(あるいはその卵)に備わっている資質 以外の何物でもないはずである。その資質が 以後どんなふうに発展し、成熟してゆくのか までがそこに示されているはずはないし、こ れは処女作を表現技術の有無で批評するのが 無意味であるということにもつながる。
 ただし、そこで資質の世界に溺れてしまっ た作家は消えてゆく運命にあるのを忘れては ならない。資質を開示するだけなら作家がそ れ以上生き続けていく必要はない。
 逆に言えば、純粋に資質だけで成り立って いる処女作というものは、作家にとって一生 に一回限り許される牧歌的な特権ではないか ということにもなる。そこにその作家のその 後を含めた全てがある、とほざくのは批評家 や後世の人間の傲慢さでしかないのだ。

これは、例えば二十四歳七か月という短い 生涯に、詩集をたった一冊しか残せなかった 詩人ロートレアモン伯爵にさえも言えること だと私は考える。
 その散文詩集「マルドロールの歌」は六歌 (六章)から成っているが、作者はまず、そ の第一歌だけを死の二年前の一八六八年に発 表している。その後、紆余曲折を経て、すで に発表した第一歌さえも全面的に改訂した上 で全六歌を書き上げている。死の前年のこと だ。
 この「マルドロールの歌」には処女作と言 われるもののはらむ謎が暗示されているよう に私には思えてならない。
 一八六八年、単独で世に出た「マルドロー ルの歌」第一歌は、作者のそれまでの人生が 作品へ昇華していく過程を見事に示している 。それが作品発表後の現実とせめぎあった末 に生まれ変わった「マルドロールの歌」全六 歌の中の第一歌は、まさに詩人ロートレアモ ン伯爵の真の処女作とみなしてさしつかえな いだろう。
 ここでロートレアモン伯爵が凡百の物書き と決定的に異なるのは、彼が、この第一歌だ けで終わらなかったことである。ロートレア モン伯爵はそのようにして打ち立てた第一歌 の孤独なスタイルを、後世の誰にも借用され ないほど余すところなく駆使して読者を第五 歌まで導くのである。
 そして、最終章の第六歌は真に斬新で美し い散文詩と手に汗握る小説、そして古代の神 話の全てを包含した上で、われわれの世紀を はるかに越えた未来を見通している。それは 名付けようのないテクストと言う他はない。 実際に読んでいただければ分かると思うが「 マルドロールの歌」全六歌は、処女作からの 極めて短期間における信じがたく美しい、激 しい飛翔なのだ。作者だけでなく、読者でさ えそれを鮮やかに体験する。「マルドロール の歌」の真の幻惑はそこに由来すると私は考 える。
 つまり、「マルドロールの歌」全六歌は、 それ自体が処女作でありながら、そのなかに 処女作なるものがはらむ普遍的な問題と、そ の完璧な成熟までも含んで成立している稀に みるテクストであるということなのだ。
 ガストン・バシュラールは「マルドロール の歌」について、これは自己への注釈を含ん で成立している作品である、という意味のこ とを述べている。また、私が読んだ限りでは 、モーリス・ブランショの「ロートレアモン の経験」は、その日本語訳の解説(小浜俊郎 氏)にあるとおり、「イロニーと自嘲の鞭で 打たれ、たえず旋回と変転と前進をつづけて ゆく精神の運動」を見事に解明してみせた文 章であり、その比類ない美しさは私にとって 批評というものの聖書でさえある。
 「ロートレアモンの経験」を初めて読んで から、もう十五年以上たつけれど、それをい まだに貧しい私の言葉でとりあえず要約して みるとこうなるのだ。
 ところで話は変わるけれど、武満徹は若き 村上龍に、「処女作が一番好きだなんて、そ れは表現者に対する侮辱ですよ」と言ったそ うである。私は「マルドロールの歌」を読み 、考えることによって、この、武満徹の言葉 に出会う前にその意味を感じとっていたよう な気がする。こんなことを言うと村上龍に失 礼だろうか?

ここで無礼を省みず、私自身のことを考え てみたい。駆け出しのくせに処女作とはおこ がましいという意見があるのは承知の上で、 あえて考えてみたいのだ。
 私の写真が初めて不特定多数のひとの目に 触れたのはもう十七年も前、日本カメラ誌の コンテストで金賞をもらった時だった(ひま なひとは八三年二月号と八月号の白黒大型写 真部門を調べてみて下さい)。
 その時、つまり高校生の私にはもちろん処 女作とは何かなんて考える頭はなかったけれ ど、あの時、写真とは何か、それがそれまで の、そしてこれからの自分の人生にどんな意 味を持っているのかということはずいぶん考 えたような気がする。それが高じて私は翌年 、選者だった森山大道氏に会いに行くことに なる。今思えば、あれが私の写真への入口だ ったのだ。
 それから十五年近くたった九七年、私は楢 橋朝子さんの03フォトスを借りて初めての 個展を開いた。その時、終始私の頭にあった のは、自分の全てを未熟を承知でさらけ出す 展覧会はこれが最初で最後だぞ、という思い だった。
 その思いこそが私の写真家決心だったのだ ろうか。話はまた変わるけれど、ウエイン・ ショーターの初リーダーアルバム「イントロ デューシング・ウエイン・ショーター」を世 に出す時、プロデューサーはあえて、アルバ ムに参加しているショーター以外のミュージ シャンの名を伏せて発売した、という話をど ういうわけかその時私は思いだしていたのだ った。
 私にとって、コンテストが写真への入口だ ったとすると、03フォトスでの初めての個 展が私の写真家としての始まりだったのだと 今にして思う。そして、あの個展のそもそも の発端は、自分を削ぎ落とすことばかり考え るのを止める、ということだったのだけれど 、それは、自分を削ぎ落とし続けるよりもず っと難しいことなのだと今、身にしみて感じ ている。
 ところで、次の個展が私にとって三回めと いうことになる。その具体的なヴィジョンは まだ見えてこないけれど、若き村上春樹が忘 れずにいたという「三作めで飛べ」という言 葉を私も忘れずにいようと思う。むろんそれ は、常に肩肘を張り続けるということでは絶 対にないはずだ。
 そして、個展と「東京光画館」の関係をき ちんと言葉で解明する時も、それに前後して やって来るのだろうという気がしている。



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