去年の五月、熱に浮かされて床についてい
た時にキース・ジャレットの「ケルン・コン
サート」をかけていた話を前回の私信2にの
せたけれど、最近は少し落ちついてこのレコ
ードを聴く余裕が出てきた。
ディスコグラフィーを調べてみると、キー
ス・ジャレットがライブで録ったソロ・ピア
ノのレコードは全部で六種類ほどあって、そ
のほとんど全ての曲にタイトルはついていな
い。演奏した都市と日付が曲名のかわりに示
されているだけだ。全くの即興で生まれた音
楽に対するこの態度には少し理由がありそう
な気がしている。
未知の都市に数日滞在したピアニストがあ
る日、ホールのステージに立ち、その都市の
聴衆を前にしてピアノを即興でかなで始める
。ところがその音楽からピアニスト個人の感
情は一切聴こえてこない。かわりに、「ケル
ン・コンサート」ならば、演奏が行われたケ
ルンという都市にまとわりついているもの、
それが音楽となって溢れ出ているといった印
象がある。
ケルンという遠い異国の都市について私は
何も知らないし、興味があるわけでもない。
ただ最近、このレコードを聴いているとどう
いうわけか阿部謹也の「ハーメルンの笛吹き
男」という本の終章に出てくる一枚の写真を
思い出すのだ。
グリム童話に出てくるハーメルンの笛吹き
男伝説。十三世紀にドイツのハーメルンで実
際に起こった一三〇人の子供の失踪事件。こ
の事件の経緯を誠実に追跡した研究書がこの
本なのだけれど、その最後の方に「一九〇〇
年頃のハーメルン」という注釈のついた一枚
の写真がのせらてている。九〇年前に街全体
を見下ろす小高い丘から撮られたハーメルン
の街の全景だ。街の真ん中を河が流れ、河に
は橋が架かり、河の両岸には教会をはじめと
する石造りの建物が並び、そしてその背後に
は畑が広がっている。異国情緒を感じさせる
典型的な西欧の小都市である。
しかし、この写真からはそれとは別の何か
が伝わってくるような気がして仕方がないの
だ。それは、「ケルン・コンサート」が伝え
てくる「都市にまとわりついているもの」の
ことだ。温もりでも怨念でもなくて、うまく
言えないけれど時間のうねりのようなもの。
ところで地図を調べてみるとケルンとハー
メルンは二〇〇キロ近く離れているし、百科
事典によれば二つの都市の性格はずいぶんと
違う。しかし、無知な異邦人にとってそんな
ことはほとんど取るに足らないことである。
石造りの都市をおだやかに流れてゆく河を
想わせる「ケルン・コンサート」。結局この
レコードはキース・ジャレットのレコードで
はなくてケルンという都市が生み出したレコ
ードなのだと思う。個人が生み出すものより
もはるかに普遍的なものから生まれる音楽に
聴こえるのだ。そしてわが身にひるがえって
考えるならば、この、時間のうねりのような
普遍性に到達するまで、私はもう少しの間息
をひそめていなければならないような気がし
ている。
一九九一・二・五