もう忘れられてしまったかも知れないけれ
ど、「なんじゃもんじゃ」で私はYAWAR
Aさんに「いっそ、写真を撮らなくなった写
真家、というモチーフで小説でも書いてみた
らどうでしょうか」と書いたことがあります
。そんな小説は有りそうで無いからです。
ただ単に写真家が登場する小説はたくさん
あるのだろうと思うし、アンドレ・ブルトン
の「ナジャ」やリチャード・バックの「かも
めのジョナサン」のように写真が無くては成
り立たない小説もあるけれど、写真というメ
ディアについて考察した「写真小説」は、私
は二篇しか知らない。
金井美恵子の「窓」(「単語集」所収)と
イタロ・カルヴィーノの「ある写真家の冒険
」(「むずかしい愛」所収)がそれだ。また
、直接写真について考察しているわけではな
いけれど、写真を撮ることの生々しさにつな
がる印象を受ける村上春樹の「野球場」(「
回転木馬のデッドヒート」所収)をここに付
け加えておきたい。いずれの短編も簡単に入
手して読むことができるので、興味のある方
は読んでみて下さい。そして、私の知らない
「写真小説」をご存じの方はぜひ教えて下さ
い。
いずれにしても、小説を書く才能と写真を
撮る才能が両立するのはことのほか困難であ
るらしく、それが「写真小説」の異様な少な
さにつながっているように私は思う。かく言
う私も小説は書けないし、無理に書こうとす
ればぶざまに写真が撮れなくなるだけだろう
という気がする。また、余技(?)で写真を
撮る小説家もいるけれど、それを面白いと思
ったことは私は一度もない。そんなものより
も、キース・ジャレット(とその奥方)や渡
辺貞夫のようにジャズメンが撮る写真が私に
はとても魅力的だ。
ついでに記しておけば、ふたりとも自分の
レコードのジャケット写真を何度か手掛けて
いるけれど、特にキース・ジャレットの奥方
のローズ・アン・コラヴィート(本業は画家
らしい)が撮ったジャレットの「チェンジズ
」のジャケット写真は私がカラー写真を撮り
始めるきっかけのひとつになった。ジャレッ
トとゲイリー・ピーコックとジャック・デジ
ョネットがフリー・インプロヴィゼーション
をやるのだから、このアルバムの音楽が素晴
らしいのは当然だし、これがきっかけで私は
ゲイリー・ピーコックというベーシストに魅
かれるようになったのだけれど、このジャッ
ケット写真をよく見たいばかりに、私はこの
アルバムのLPレコードを手に入れることに
なった。
それはともかくとして、音楽と写真という
のはわりとなじみやすいような気がするのだ
けれど、小説と写真というのはあまり反りが
合わないようである。それがどうしてなのか
残念ながら私にはうまく言えないけれど、時
間に対する態度が両者では根本的に違うせい
なのだろうという気がする。
そんなわけで、写真について考察した「写
真小説」がこれ以上書かれることを私は期待
することができないけれど、そのかわり誰か
が写真から言葉を紡ぎ出してくれることを私
はひそかに夢みている。
写真家がその肉体や思念を振り絞って現実
を通過させる時に写真は産み落とされる。そ
してその写真のまわりを言葉のひとは逡巡す
る。そのひとはその感覚、記憶、知識、肉体
の全てをかけて写真から言葉を紡ぎ出すわけ
である。つまり、写真家が切り取って積み上
げた断片から再び厚みのある世界を構築し、
写真の中で停止した時間を再び始動させ、そ
こから生じる言葉をそのひとは聞き取る。こ
の場合、写真家と言葉のひとは同じひとでも
別人でもいいわけだが、いずれにせよそれは
言葉/現実が再生するための儀式になるよう
な気がする。
それは作曲家と演奏家の関係に例えられる
かも知れない。作曲家が楽譜に記した音譜と
音譜の間を、楽器を持った演奏家はその感性
と技術の限りを尽くして埋めてゆく。その、
演奏家の時間の流れと共に美しい音楽は生ま
れる。この場合、写真家は作曲家に、写真(
あるいはその集積)は楽譜に例えられるわけ
だ。
そんなふうにして生まれ出る言葉は一体ど
んな性質を帯びているのだろうか。私にはよ
く分からないが、大まかにふたつの可能性を
提示できると思う。
ひとつは、我々とは全く無縁な異界の消息
を伝える言葉。もうひとつは、我々の意識の
暗闇に眠っている物語を伝える言葉。それは
いずれも散文詩や寓話のような体裁をとるの
だろうが、それを私は「写真物語」と呼んで
おきたい。
その「写真物語」を成す言葉は、我々の日
常に溢れている言葉とは全く違った力を持っ
ていることだろう。それは世界の脱け殻とし
ての死んだ言葉ではなくて、自律した生命を
持って自らを語り始める言葉になるはずだか
らだ。
もしかしたら写真という行為は、言葉を再
生させ、そこに危険な生命をふきこむ力を隠
し持っているのかも知れない。言葉/現実を
遠い黄泉の国に連れ去り、その水を浴びせて
変容させ、再びこの世界に連れ戻す。そこか
らひき起こされる物語は強大な力をこの現実
に対して行使するだろう。
そんな「写真物語」を内包し、展開させて
いる写真家はすでに少数ながら存在する。し
かし、それが私の中から始動する時を私はず
っと待ち続けている。それはそんなに遠い未
来のことではないだろうと私は思っている。