How Many Photograp hers?

写真家って何だろうか、というぬえのよう な問いを私は写真を撮りながら飽きもせずに ずっと考えてきたのだけれど、もうひとつ、 よく分からない疑問がある。
 写真家っていったい何人くらいいるんだろ う、ということだ。
 カメラを持つということに自覚的であれば 皆写真家なんだ、それ以外のこと(写真で金 を稼ぐとか写真を発表するとか)は写真家で あるか否かに大して関係は無い。この考え方 が最も正当であることは充分承知の上で、そ してそれが写真の最も素晴らしい可能性であ ることも百も承知の上で、とにかくここから 話を始めることにする。この、つかみどころ の無い写真の広大な可能性に私はずっとつま ずいているのだから、それを晴らすために私 は書く。長い暗闇を抜けて青空の下に出るこ とを私は夢みている。

まずは写真を他の世界と比較することから 話を始めてみる。
 例えば、将棋や相撲や野球なら、その肩書 を名乗るにはプロの団体に所属しているとい うことが絶対の条件になるからその人数は明 らかだし、小説家や画家の場合でもその基準 はやや曖昧にはなるけれど、定期的に作品を 発表している作家の数を把握すればそれほど 見当違いの数字は出てこないだろう。もっと も、これではカフカやゴッホのように生前は 創作に没頭しながらも、死後に名作を残した ひとはその数から漏れてしまうことになる。 アートの世界は勝負の世界よりもその基準が あいまいになるということがここでも明らか になる。
 そしてさらに困ったことに、写真家の場合 は何をもってその人数を数えれば良いのか明 らかな基準が全く無い。小説や絵画と違って 写真を発表するフィールドは無数にあるし、 べつに写真を発表しなくとも写真家であり得 る。このふたつの裏を返せば、写真を発表し ていても写真家の名に値しないひともたくさ んいる、ということになる。写真には撮影者 の意思と一応無関係に現実を記録して伝達す るという機能があるので、撮影者がその機能 を当然のこととして見過ごしている限り、そ の人は写真家の名に値しないと私は考えてい る。
 つまり最初に述べたことの繰り返しになる が、写真家である、ということは世間的な体 裁よりも本人の決意と姿勢に負うところが大 きい、ということだ。そして、プロとアマの 違いが極めて曖昧で、それがさほど意味をな さないのも写真の特性のひとつだろう。

ところで、日本にはどこの世界でもプロと 呼ばれるのは大体千人くらいいるもんだ、と いう話を誰かに聞いたことがある。将棋は女 流も含めて二百人くらいだから一番厳しい世 界なのかも知れないけれど、相撲界は全体を ひっくるめれば千人弱、プロ野球は十二球団 あるから千人強。そして以前、サックス奏者 の梅津和時さんと呑んで話していた時に梅津 さんが言うには、ジャズメンもやはり千人く らいいるんじゃないかということである。
 自分の名前を前面に押し出して、やりたい 音楽だけを演奏して食べているジャズメンの 数はそれよりぐっと少なくなるけれど、時折 ライヴハウスに出演して演奏したり歌ったり してお金をもらい、足りない分はスタジオミ ュージシャンをやったり音楽と関係ない仕事 をして生活しているひとを数えると、確かに 千人くらいにはなるような気がする。
 そして、話がさらにややこしくなるのは、 梅津さんのようなひとはもちろん別にして、 自分の名を前面に押し出した音楽だけを演奏 しているひとがいろんな仕事をこなすひとよ り格が上とは限らない、ということがあるか らだ。この辺の事情は音楽も写真もよく似て いる。
 ところで、これは将棋に詳しい私の弟から 聞いた話なのだけれど、弱いプロは強いアマ に負けることが時々あるという。将棋のプロ になるには三十歳までに四段になる必要があ るわけだが、その激戦をかいくぐってさらに 精進している(はずの)プロが、真剣勝負で アマに負けることがあるらしい。そして、い つまでも弱い(あるいは弱くなった)プロは 不祥事を起こさないかぎり失職することは無 いとはいえ、「ちゃんと没落の道は用意され ているんだよ」と弟は言っている。
 だから、若くて強いアマチュアの中には負 け惜しみでなくて、「俺は四段くらいにはな れるけれど、その程度で終わるならアマでい たほうがいい」と決意して、プロで挫折する 前に世間に出てゆくひとも多いそうである。
 将棋は音楽なんかよりもつぶしがきかない ということを彼らは見抜いているのだろうが 、ともあれそんなひとたちは大学を出て(ほ とんどのプロ棋士は大学には行かない)、比 較的自分の時間を持てる普通の仕事に就いて 、将棋の大会がある時に休みを取ってそれに 参加する。そして時には弱いプロを負かした りするわけである。
 そんな真摯なハイアマチュアの棋士は、普 段は普通の生活をし、仕事や家庭を持ったり しながらも、そのどこかではいつも将棋のこ とをあれこれ考えているのだろうと私は思う 。もしかしたら生活と将棋がイコールで結ば れているのかも知れない。そんな人生は私に はとても魅力的に思える。羽生善治さんのよ うな大天才にして人格者は逆に、将棋を考え ることが人生のそれ以外の部分を考えること に通じているのだろうけれど、この両者に優 劣をつけるのはあまり意味が無いような気が する。将棋は勝負事だからその力の差ははっ きり出てしまうけれど、それは入り口が違う だけのことではないかと私は考えたい。

さて写真家である。写真家だって、そんな 世界と事情は大差ないだろうという気がする 。フルタイムの写真家と我々のような無名の 写真家のどちらが幸せなのか、そんなことを 一般論で語ることはできない。
 ただし、写真家が世間知らずであって良い はずはないのに、写真だけに下手にのめり込 むとどうもそうなってしまうようなところが ある。つまり逆説的だけど、写真にのめり込 むほど写真家は目が見えなくなり、写真が撮 れなくなってしまう。要するに、写真を撮り 続けるためには情熱と同じだけの冷徹さが必 要になるのだ。写真家であり続ける困難とは 、その矛盾を維持し続ける困難ではないだろ うか。
ここで私自身のことに話を戻すと、写真の 外を放浪することによって私は写真が撮れる 、というのが昔から変わらない自覚だ。
 つまり、写真以外のものを抱え込むことに よって私は写真を撮り続けることができるわ けだ。もっとはっきり言えば、「生活」や「 人生」があってこそ私は写真家でいられるの だ。喰えなければ写真が撮れない、というこ とを言っているのではない。写るものが無け れば写真は始まらない。それが私にとって「 生活」や「人生」なのだ。これを見つめるこ となく「写真」にのめり込んでみたところで 行き詰まるのは当たり前ではないか。
 こうして、ようやく私は自信を持って写真 家を名乗ることができる。ビートルズの名曲 のとおり、「The Long And W inding Road」を経て、今私はこ こにいる。

こんなふうに考えてくると、結局原点を想 わずにはいられない。私が初めて心ひかれた 写真家の安井仲治(初めて見た百科事典の「 写真」の項に、あの有名な犬の写真が載せら れていた)と、初めて名前を憶えた写真家で あり、先日亡くなられた植田正治さんだ。ふ たりとも生涯「アマチュア」の生き方を貫き 、独立独歩の、しかも優しい人間性を備えた すばらしい写真家だ。
 それにしても、私は植田さんが数年前、砂 丘で撮った歌手の遊佐未森さんのポートレー トにいまだに嫉妬している。ひとの写真に嫉 妬するなんてとても悔しいけれど、私にとっ てはこれが唯一のことなのです。

最後に蛇足を。写真家は何人いるか、とい う冒頭の疑問だけれど、数千人ではないか、 と私は思います。
 それから、植田さんは安井仲治と面識や交 流はあったのでしょうか? 時代的、地理的 にそれは可能だったと思いますが……誰か教 えて下さい。
 なお、植田さんは遊佐未森のCD「ロカ」 と「アカシア」の写真を担当しておられます 。



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