「そうだ、村上さんに聞いてみよう」 そしてSETIのこと

いつのまにか「無限通信」も毎月の連載に なりました。ブーイングもとりあえず私の耳 には聞こえてきませんし、先日久々に会った 友人の写真家、長瀬達治にも好評でした。あ りがとうございます。
 毎月自分の頭から出てくることばかり記し ていては間が持たないし、私も疲れてしまう ので、時々はその時読んだ本の話から始めて みたいと思います。勤めを辞めて以来、写真 も文章も肩の力が抜けて良くなってきた、と 長瀬達治は言ってくれたけれど、文章がまだ まだとがっているようで、時々はおしゃべり のような文章を書いてみたくなったのです。 おしゃべりの通例として、話が違う方向に飛 んでいくこともあるかと思いますが、どうか よろしくおつきあい下さい。
 ついでに申し上げますと、この「無限通信 」は画面上では横書きですが、その成立はか なり複雑です。・下書き用の大学ノートやそ のへんにあるメモ用紙に文章をなぐり書きす る(横書き、鉛筆使用)。・ワープロで清書 する(縦書き)。・MS−DOSフロッピー としてYAWARAさんに郵送する。・YA WARAさんが「東京光画館」に載せてくれ る。
 というプロセスを経ております。「無限通 信」の清書はどういうわけか縦書きでないと うまくできないのです。「東京光画館」の画 面上では別にどちらでも良いのですが。数字 が漢数字になっているのはそのためです。ち なみに「なんじゃもんじゃ」は下書き無しの 横書き、この、「読書日記」は下書き無しの 縦書きで書くつもりです。 

今月は朝日新聞社から出た「そうだ、村上 さんに聞いてみよう」から話を始めます。村 上春樹さんがインターネット上で、いろんな ひとの相談や疑問に答えた文章をピックアッ プして、問答形式でまとめた本です。イラス トは安西水丸さんです。
 面白いです。村上春樹さんの作品は大好き ですが、どういうわけか私は文庫化されてか ら読む、という奇癖を維持しております。な にせ新作が出ると世間がわっと騒ぎ立てるの で、それに巻き込まれたくないという気持ち です。
 読者から寄せられた二八二の疑問に対して 村上さんが返事を書いています。その疑問は 森羅万象に渡るもので、とっても面白いので す。このホームページは既に閉鎖されている ようなので、これから参加するのは不可能な のですが、この本を読んでいるだけでそれに 参加している気持ちを味わえます。

ところで、私が聞きたいな、と思うことは 相手が村上さんに限らず次のことです。
 ・地球外知性(ETI、いわゆる宇宙人) は存在するか?・存在するとしたら彼らは我 々をどう思っているか?・近未来に彼らが我 々に接触してくることはあり得るか?
 話がどんどん脱線していくけれど、私の考 えは次のとおりです。
 ・ETIは存在するし、彼らは我々の存在 にもすでに気がついている。百年前から我々 は地球外に人工電波を流し続けているから。 ・地球人類は原始人である(マッカーサーが 日本人を評したように、精神年齢十二歳?) 。・無い。ただし、彼らの痕跡を我々が発見 することはあるかも知れない。
 ETI探し(SETI)に関する専門書に よれば、このような考え方を「動物園仮説」 と言います。科学的に推察して、ETIが存 在しないことはあり得ない、しかし、我々は 彼らと接触出来ない、ということから導き出 される仮説です。太陽系近辺は原始文明がど うなっていくか観察するための自然公園であ る、というわけです。人類はまだ他の知性と 接触する資格を持たない、ということでもあ ります。

二十世紀後半、人類は核兵器の実用化によ って人類全体として自殺する方法を手に入れ たわけですが、これは文明の発展段階を比較 するのにかなり有効な目安になるのではない か、との説があります。
 そして、人間が自殺(あるいは殺人)の欲 望や手段を手に入れるのは思春期の初めです 。赤ん坊や幼児に自殺や殺人は不可能です。 とすると、人類はようやく思春期にさしかか って性器が成長して髭や陰毛が生え始め、し かしいまだに尻の青い少年少女ではないか、 という見方が成り立ちます。二十世紀がけん かとおもちゃ(戦争と科学技術)の世紀であ ったとするならば、二十一世紀は精通と初潮 の世紀になるのかも知れません(何を言って いるのか自分でもよく分からない)。
 誰もが経験してきた、それぞれの思春期を 思い出せるなら、人生は、あるいは世の中は 少しは生きやすくなるのではないか、私はそ う思います。どうして大方の人間は、大人に なると未成年の気持ちが分からなくなるのだ ろうか?、これは私がずっと抱いている最大 の疑問のひとつです。どうしてですか?、誰 か教えて下さい。
 科学者の中には、人類はこの宇宙における 唯一の知的生命ではないか、と考えるひとも います。人類を知的生命であると断言するこ と自体、科学者の傲慢さの表れのように私に は思えますが、彼らは人類のような生物が出 現することが奇跡に等しいからだ、と主張し ます。しかし、生命の形態はひとつではあり 得ないし、そんな多様な生命をはぐくむ環境 がこの宇宙に遍在していることは科学が明ら かにしつつあることです。そして、知性は生 命だけに宿る、と断言することさえ私にはは ばかられるところがあります。
 人類は唯一の知的生命である、と主張する ひとびとは、私に、思春期を迎える前の孤独 な子どもを思わせます。彼らは他者の存在を 認めることができないのです。
 幼い頃、肉親を含む周りのひとびとを見渡 して、「この世にこうして生きている人間は もしかして自分ひとりだけではないのか」と いう冷めた孤独を認識する子どもは意外に多 いようです。赤瀬川原平さんもどこかでそん な話を書いていましたし、谷川俊太郎さんの 文庫版の詩集の解説にもそんな話が出てきま す。何を隠そう、私もそんな子どもでした。 それは家庭環境にはそれほど関係ないことら しい。
 この地球に何十億とひしめいている人間の ひとりひとりが皆、自我を持ち、それぞれの 人生を生きている、という事実は圧倒的です 。他者の存在を認めるということ、それは目 の眩むような体験ですが、これも思春期を通 過しなければ不可能なことです。それでも、 「自分」が私ひとりしかいない、という事実 は今でも私をとまどわせ、計り知れないほど 孤独にさせますけれど。

百年足らずという人間の寿命が、はたして ユニヴァーサルな、つまり、星空の彼方にあ る異文明とつきあうに足る長さなのか、とい う疑問もあります。百年というのは、星と星 の間で意思を通わせるには余りに短い時間で す。その百年でさえ、我々は心安らかに過ご すことができません。
 そもそも、生命にとって百年という時間が 長いのか短いのかということさえ我々には分 かりません。確実に言えるのは、我々が文明 を持ってから、長く見積もっても百世代程度 しか経っていないということです。そして、 近年の技術や知識量の劇的な変化に対応する ほど人間の肉体(脳も肉体の一部と考えてよ い)は変化していません。人類の百世代は数 千年の時間ですが、ある種の微生物にとって それは一昼夜に過ぎません。彼らはその一昼 夜の間に新しい性質を獲得することも不可能 ではありません。時間の尺度とはこれほどま でに主観的なものなのですね。
 我々は何者なのか、どこから来てどこに行 くのか、ここはどこなのか、今はいつなのか 、ゴーギャンの絵のタイトルみたいなことを つぶやかないわけにはいかないのです。
 さきほどの質問を、私は世界中のひとにし てみたい。「東京光画館」の皆さんも、この 疑問について何か思うことがありましたら書 き込みをお願いします。きっと面白いと思い ます。

ところで、今までに太陽系を飛び出して遙 かな恒星への旅を始めたパイオニアやボイジ ャーといった宇宙船には、例外なく地球人類 から未知の知性体に宛てたメッセージが積ま れています。これは先年亡くなったカール・ セーガン博士の発案によるもののようです。 博士の思想と実践はノーベル文学賞(!)に 値するはずだと私はかねがね考えていました 。(イギリスの政治家チャーチルが、その回 想録によってノーベル文学賞を受けて以来、 狭義の文学作品にしかそれを授賞しなくなっ たらしい。)
 それにしても人間というのはなんてさみし い生き物なんだろう、と私は思います。
 我々は孤独なまま、いずれ宇宙の広大な暗 闇の中に滅び去っていく運命に耐えられず、 いるかいないか確証の無い相手に向かって、 しかも何億年後という我々が滅び去った遠い 未来にそれが届くことさえ夢想して、ささや かな手紙を書かずにはいられない。恥知らず な電波を宇宙にまき散らすだけでは事足りず 、ささやかなオブジェを遠い星のひとびとに 希望を繋いで、虚空に向かって送り出さずに はいられない。それは宇宙の広大な暗闇に釣 り合うくらい奥深い、人類の孤独がさせてい ることだと私は思う。人間でいることがとて も辛い。
 大丈夫だよ、と言えたらどんなにいいだろ うか。そこで、こんなふうに考えてみる。何 億年か後に人類や地球や太陽系が滅び去って しまっても、我々が宇宙に送り出したささや かなオブジェは宇宙の歴史とともに虚空を永 遠にさまよい続ける。我々のレーゾン・デー トルは我々の死をはるかに乗り越えて、この 宇宙の歴史の中に刻まれる。つまり、ささや かなものであっても、我々の存在は「宇宙史 」の必然として記録され、記憶される。あの ささやかなオブジェはそのシンボルとして存 在し続ける。
 そういえば、パイオニアやボイジャーに積 まれた「レコード」にはグレン・グールドの 演奏するバッハや、ルイ・アームストロング の歌やトランペット、そしてこの地球の景色 や人間の生活を収めた写真とか、いろんなメ ッセージが入っていた。
 それは孤独な少年の、切実でしかし聴きと りがたい叫びを思わせる。あるいは村上春樹 の「ノルウェイの森」の冒頭で、死んでしま った直子が「僕」に「私のことをいつまでも 忘れないで」と必死に訴えかけるシーンをも 私に思わせる・・・
 確かに人類は「思春期」にいるのですね。 大方のひとが、年をとるとそれぞれの思春期 を思い出せなくなるのはそのせいかも知れな い。人類全体は思春期であっても、それぞれ の人間は未消化のままそれを越えて生き続け ざるを得ない。そして、思春期を忘れずに生 きていくのは、一生を通じてこの世界の(こ の宇宙の)暗闇の存在を意識し続けることに 等しいのかも知れない。精神を病まずにそれ ができる人間を私は大人と呼びたいけれど、 そんなひとはそれほど多くはいないだろう。 だから大方のひとはそれぞれの思春期を忘れ てしまう。世界の豊かさに心を開くよりも、 自らの正気を保つことを優先させざるを得な いのだ。人間でいることがとても辛い。

最後に話を村上さんの本に戻します。しか し、コメントを続けていくときりがないので 、特に私が気になった所の一部を挙げるにと どめます。あとは実際に本を読んでみて下さ い。
 小説家になることはそれほど難しくはない が、小説家であり続けることはとても難しい 。小説を書き続けるのは破壊性との不断の闘 いであり、それが出来る人間はそれほどたく さんはいない。充分に愛された自覚の無いひ とがひとを愛することは、充分に試す価値の あることだ。娘がエッチビデオを見ていると ころに母が入ってくる図というのは、なかな かのものですね。「個性的」であるのは病と 同じで本人にとっては結構きつい。ビックス ・バイダーベックとフランキー・トランバウ アーのライヴ。河童の川流れ。その手は桑名 の焼きはまぐり。私、今、目まいしたわ(回 文)。真剣に物を書きたかったら真剣にそこ にある壁にしがみつきなさい。あらゆる人間 は病を抱えている。ETC,ETC・・・
   小説家も写真家も同じなんだなあ、という のが私の感想です。なんだか勇気づけられま す。

追伸、横尾広光著「地球外文明の思想史」 、カール・セーガン著「宇宙との連帯」「コ スモス」及び小松左京、埴谷雄高両氏の対談 記録を参照しました。私の愛読書です。



[ BACK TO MENU ]