押入れの整理をしていて出てきた、橋本治の「宗教なんかこわくない!」を私は読み返した。これはもちろん「読んではいけない本」ではない。
この本はオウム事件の直後に、それについて書かれた本で、幸い私はオウムの連中に関わることなく済んだのだけれど、この本にはかつての自分の、あまり触れたくない心の部分について解明しているように読める文章がたくさんある。だから、私はこの本の文庫版が出ると購入して、何度か読み返して、それでも手放すことはせずに、普段は目につかないように押入れの奥に片づけていたのだと思う。
あの事件の直前、オウムの連中は私の周りにも何人かいたと思う。あの時代、カルトにかぶれている連中は今よりも多かったような気がする。自宅の郵便受けにオウムの関連会社のチラシが入っていたことも何度かあった。そして、カルトにかぶれてしまった知人を見て、私自身、ずいぶんと気持ちの悪い思いをしたのを憶えている。
カルトは例外無く個人崇拝の一神教であるように私には思えるけれど、あの気持ち悪さはそれに特有のものなのだろう。そう言えば、撃ち殺された元総理大臣も、その原因はカルトとの関わりだった。そして今、世界中で戦争が絶えないけれど、その首謀者はカルトではないにせよ、一神教や個人崇拝を後ろ盾にしている。一神教は、もしかしたら諸悪の根源ではないのか。その中毒性にあらがうのは大変である。
そんなことを考えていたら、四十年以上前に発表された倉橋由美子の長編小説「城の中の城」を私は思い出した。私は今までこれを読んだことが無いけれど、これは、一神教は人類の病気である、という作者の考えに基づいて書かれた、ということは憶えていた。そこで、私は図書館の書庫からこの本を出してもらって読み始めた。
これがまた、旧仮名遣いで書かれた陰微な小説である。本の付録には作者のインタビューが載せられていて、ここに某評論家の、「知的俗物の日常を書いた何の変哲も無い小説」という書評が紹介されている。これがいちばん適切な批評ではないかと私も思う。
私の高校の頃の友人で、倉橋由美子を読んでいて気持ち悪くなった、という男がいた。今になってそれが私にはよく分かる。この小説も、ひとによっては「読んではいけない本」になるのかもしれない。
この本には独特の臭気があって、それは食べ物にたとえれば、ある種の発酵食品に似ている。その臭気に慣れてしまえば、他では体験できない美味しさを味わうこともできるけれど、小説なんてそこまでして読むものなのだろうか、とも私は思う。こんな世界には深入りしない方がよさそうである。
私が高校生の頃、倉橋由美子の初期の短編はよく読んでいたし、今は読み返すつもりになれないけれど、長編「聖少女」はとても好きだった。そして、後期の長編は「シュンポシオン」が私は好きで、この文庫版は今でも私の本棚に並んでいる。
話をもどすと、この「城の中の城」にも書かれているように、一神教というのは陰微で傲慢で中毒性があって、独特の臭気を放つものである。この病気から回復するのは大変なことである。そのことだけは私は改めてよく分かった。それだけを私はこの本から学んだ。
あたりまえのことだけれど、本は何でも読めばいい、というものではない。この本は読んではいけない、という勘を養うのも読書の技術だと私は思う。
たとえば、カルトについて少し調べようとすると、本でもネットでも「これ以上面白半分に近づくのは非常に危険です」という警告に行き当たることが多い。ミイラ取りがミイラになる、ということなのだろう。もちろん私はそこで引き返すことにしている。この一線を越えておかしくなってしまった知人を私は見たことがあるからだ。
政治家が書いた(とされる)一般向けの本や対談本にも私は手を出さないことにしている。これはとても分かりやすく書かれていて、その歪んだ、あるいは偏った世界観や個人攻撃が、ごく自然にこちらに染みこんでくるようになっている。あんなものを批判的に読んで楽しむ能力は私には無いし、そんなことは時間と労力の無駄でしかない。
筒井康隆の「乱調文学大辞典」には「あなたも流行作家になれる」という付録があって、ここに「大作家が書いた小説作法や文章読本のたぐい、あれはどうとち狂っても読んではならない。読んだが最後身の破滅であって、あれを手本にして書いた小説なんて断言してもよいが誰ひとり読まない」というようなことが書いてあったと思う。だから、文章にせよ写真にせよ、私はそのたぐいの本は読んだことが無い。
文章にせよ写真にせよ、これはひとの助言を受けることはあるにせよ、手探りでひとりで身につけるべきものなのだと私は思っている。思想や生き方だって同じことだろう。
蛇足をつけ加えるなら、生まれて初めて、ひとりで手探りで書いた小説が新人賞を受けるくらいでないと、プロの小説家として一生仕事を続けるのは難しいみたいだし、日本を代表する、と言われるくらいの写真家は皆、自分のカメラを持って一年くらいで頭角を現している。
そんなひとたちは、「読んではいけない本」を判別する能力を最初から備えていたのだろう。本に限らず、踏み入ってはいけない世界、つきあってはいけない人間を判断する能力についても同じことなのだろう、と今の私は思う。
今の私は、自分の嗜好と異なった本でも、それが悪文でない限り、読み進めることができるようになったと思う。昔は読めなかった「城の中の城」を読了できたのがその証拠になるだろうか。この本にも書いてあったけれど、一神教の聖典とか、あるいは「読んではいけない本」というものは、悪文で書かれているような気がする。もしかしたら、ひととのおつきあいも同じだろうか。
こんなふうにして本を嗅ぎ分けながら古い本をあさるのは楽しいことだし、私自身もひとから選別されているのを承知の上で、ひととおつきあいを続けるのも素敵なことである。