文化の日のお昼前に、テレビで山中伸弥先生とタモリが出演した、脳とAIの番組の再放送があった。私はこれを外出先で途中から見たのだけれど、分かりやすくて本当に面白い。この番組で私にとってとても印象的だったのは、脳細胞どうしのつながりの数は、AIの素子のそれよりも桁違いに多い、ということと、脳はAIよりもはるかに少ないエネルギーで活動している、ということだった。
結局、脳の奥深さはとてつもないもので、その意味ではAIは脳にはるかに及ばない。考えてみれば当然のことで、数十億年の時間をかけて進化してきた脳と、それをモデルにして人間が作った、わずか数十年の歴史しか持たないAIあるいはコンピュータは本来、比べられるものではないのだろうと私は思う。
番組では、実験室で培養された脳細胞とコンピュータを接続する実験を紹介していた。これによって両者の欠点を補うことができる、と言うのだけれど、実験に使った脳細胞はその後どうするのだろう。脳細胞がいくつ集まってどんな状態を取ると意識や無意識を持つようになるのだろう。そんな脳細胞を粗末に扱うことが許されるのだろうか。それを私は疑問に思った。
別の本で読んだのだけれど、脳の弱点はいつか死んで消滅してしまうことだ、という見解があった。たしかにそうかもしれない。AIは自然死することは無い。けれども、繰り返し私は書いているけれど、不死というのはそんなに素晴らしいことなのだろうか。自然死は更新でもあるのではないか。
精一杯に生きて様々な活動をして、この世に何らかの痕跡を残して自然死する。これは素晴らしいことではないのか。データを保管しておくのは、死ぬことができずに膨張して老いてゆくばかりのAIに任せて、人間は誇りを持って自然死すればよいのではないだろうか。そこからおそらく知識や知恵、つまり尊厳が生まれる。不死である、というだけで、AIは融通がきかない不自由な道具に過ぎない。私はそう思う。人間はとことん自由なのだと思う。おそらく、死と自由には深い関係がある。
それでも、こんなに科学技術が進んでいって人間は大丈夫なのだろうか。そんなふうにも私は思う。
人間の能力が最高だったのは、はるか昔、農耕を始める直前だった、と私は何かで読んだことがある。その頃、縄文人は素晴らしい芸術を残して、海図も無しで丸木舟で外海を航海して、地図も無しでけわしい峠を越えることができた。あるいは、津波がやって来る場所からは縄文人の住居跡は絶対に見つからない。彼らにはその危険が分かっていた。そんな勇気と慎重さも彼らは持ちあわせていた。我々にそれができるだろうか。
豊かで便利な世の中に住んで、我々は明らかに退化している。彼らに比べれば、はるかに安楽な生活をして、長い人生を我々は生きることができる。けれども、こんな世の中で長い人生を有意義に楽しく生きるためには特殊な才能が必要になる。その困難を乗り越えるのは誰にでもできることではない。AIを使いこなすことによってその困難を緩和することはできるかもしれないけれど、それも誰にでもできることではないだろう。
AIによって人間は淘汰されてゆくのだろうか。そんな気もする。AIと距離を置いて適切に使いこなせる人間と、それに極力関わらないで、それでもしぶとく生きる私のような人間が生き残るのではないか。私は勝手にそう予測している。
それにしても、平穏な人生を生きることがずいぶん難しい世の中になってしまった、と私は思う。特に際立った才能も無くて、あえてやりたいことも特に無いけれど、善良で勤勉な、そんなひとびとが平穏に幸せに生きて、次の世代を育てた後に自然に死んでゆく。こんな当たり前のことが、今は本当に難しい世の中ではないのか。平凡で平穏で幸せであることがこんなに困難だなんて、そんなことがあってよいのだろうか。
私はそんなふうには生きられないことをわきまえてはいるけれど、それでも、いまだにそんな人生に憧れる気持ちがある。
世間が言うところの幸せとは少し違った幸せを私は生きている。この自覚と喜びが私にあるのはたしかだけれど、それでも、あり得たかもしれない、もうひとつの幸せな人生を思う気持ちは消えない。いくらAIが進歩しても、人間はたったひとつの人生しか生きられない。人生の厳しさはこれに尽きるのだろうと私は思う。たとえ、もうひとつの人生の可能性をAIが仮想空間に実現したとして、それが何になるのか。
ならば、当たり前のことだけれど、与えられた、たったひとつの人生を大切にして、それを幸せにしてゆくように生きるだけである。それが世のためひとのためにもなる。
人間に、はてしない深みがあるのなら、自分にできることを見つけて、それを誠実にこなしてゆけば誰でも幸せになれるはずである。人生なんてそれでよいではないか、と私は思う。だから、幸せとはこういうものだ、と押しつけてくる世の中はもうごめんだ。
この年齢になれば、もう世の中の進歩に無邪気についてゆくのは止めにしたい。それは若い世代に任せて教わればよいことだし、若い世代はそこで私から何かを学んでくれる。これも、おたがいの幸せの形ではないか、と私は思う。