少し時間の余裕ができたので、疲れを取りながら、私は以前よりもたくさん本を読む生活を送っている。もちろん、今までの日々の生活を壊すことは無いし、私が病気をしているわけでもない。五月の連休にはモノクロームの暗室作業をしたり、自宅のささやかな花壇や家庭菜園の準備をした。それから少し時間をおいて種蒔きを済ませて今、その芽が出てきている。そして、私はこうして以前よりも時間の余裕を持って日々を眺めることになる。もちろん、週末になると買い物を兼ねて盛岡の町を歩いて写真を撮る。
そんな中、先月はミヒャエル・エンデの「モモ」を読んだ話を書いたけれど、その後、講談社ブルーバックスから出ている「時間の終わりまで」という六百ページくらいもあるぶ厚い本を私は読み始めた。著者はブライアン・グリーンという理論物理学者である。この本は、宇宙論から生命論から人間論から宗教論から社会論、芸術論、哲学論まで及ぶ、真剣で広範で豊かな「語り」である。そして同時に、文庫になった村上春樹の長編小説「街とその不確かな壁」も私は読み始めた。
どちらも、すばやく流し読みすることができない本である。いつのまにか、その世界に私の身も心も引きこまれている。その上で、私は蓮池薫著「日本人拉致」や小泉悠著「ウクライナ戦争」(戦争が始まった年の暮れに出ている)、などなど、これまで読みたくとも読めないでいた本を読み終えた。まさにこれは、「書物の森の入り口」だと思う。
「時間の終わりまで」と「街とその不確かな壁」、この二冊は、それだけで「森」と呼ぶのにふさわしい奥行きを持っていると私は思う。たくさん本を読むことだけが「書物の森」に入る方法ではない、ということを私はひさしぶりに思い知らされた。
不思議なことに、この二冊は深いところで照応しているような印象が私にはある。「時間の終わりまで」には、物語の起源について論じている部分があるし、「街とその不確かな壁」に登場する異界は、我々の心の奥深くを突き抜けて、この宇宙の暗闇にまでつながっている印象があるからだ。
私の個人的な疑問や記憶に、この二冊が深いところで応えてくれるのはたしかなのだけれど、それ以上に、この二冊はこの世界、この宇宙、あるいは私の個人的な記憶、そのわだかまりについて、いろいろなことを示唆してくれる。そのことが私に何よりも勇気と希望を与えてくれる。
そんな「書物の森」に引きこまれている時、私自身、こうして日々をいつもどおりに過ごしながらも、心と身体のいくぶんかは異界に引きこまれているのだと思う。大げさな言い方ではあるけれど、幼虫が成虫になるためにさなぎになって、その中で今までの自分がどろどろに溶けて作り替えられてゆく、それに少し似ているのかもしれない。
そんな、普段の読書とは違う「書物の森」を体験することは、大変にエネルギーを使うことであるらしく、いつも以上に腹が減るし、金曜日にはいつも以上に疲れてしまう。そんな中、心地よい眠りが私に毎晩訪れるようになれば、今回の「書物の森」体験は終わるのだろうけど、毎晩普段どおりに眠れているにせよ、今の私はおかしな夢にうなされてしまうことが多いみたいだ。それを振り払うためにも、私は週末になるとカメラを持って外を歩くことになる。
人生のステップを昇ってゆくような生き方を心がけているのであれば、きっと何歳になってもこんなことは起こるのだという気がする。これから歳を取るために、これはどうしても必要なことなのかもしれない。今まで生きてきて、こんなことは私の身の上に何回か起こった。そのたびごとに、私はひととの出会いに助けられて、脱皮して生き続けてきた。今回もそれと同じだと思う。
そして、この二冊の本を読みながら、私はこんなことも思う。「時間の終わりまで」、こんな、浮世離れしたぶ厚い本が日本語に翻訳されて、新書版という親しみやすい形で書店に並べられる。「街とその不確かな壁」という、読みやすくて面白くてとても奥深いけれど、こんな、とことん奇妙な物語が世界中で高く評価されてベストセラーになる。
つまり、こんなものすごい本が今の世の中に広く受け入れられて愛される。このことこそが、真に驚くべきことなのかもしれない。私もつまらないかたくなさを捨てて、もっと鷹揚に生きてもよいのかもしれない。それこそが、勇気と審美眼を必要とする本当の冒険なのかもしれない。
この二冊を読み進んで、そのうえで他の本を読んでいると、今まで私が人生の大ごとだと思いこんでいたことが、実はどちらでもよいことであるのにようやく気がついたりする。それは、選択そのものよりも、その後の生き方の方がずっと大事だ、という、考えてみれば当たり前のことである。
これを私に教えてくれたのが、今回の「書物の森」の効用なのかもしれない。外を歩けば、季節はいつのまにか初夏になっている。