もうひとつの故郷

コロナやら何やらのせいで、時々ささやかな旅に出る暮らしから、私はすっかり遠のいてしまっている。昨年の晩秋に青森県下北半島の下風呂温泉を訪れた後は、春先に盛岡市のとなり町の花巻市に日帰りで用を足しに行っただけで、ここのところ、私はずっと盛岡の盆地から離れない生活を送っている。私事ではあるけれど、以前の私からすれば、驚天動地と言ってもよいのかもしれない。

そのおかげで、盛岡の町をしつこく写すようになって、これはとてもよいことだったと私は思っているけれど、最近さすがに息苦しくなってきたのもたしかである。

私は盛岡の生まれだけれど、中年の入り口にいたるまで、ずっと他県で暮らしてきた。だから、盛岡に限らず、生まれた土地でずっと育って、他所を知らずに生きてきたひととあまり馬が合わないし、そんなひとが撮る地元の写真も、何となくきゅうくつで好きになれない。

そんな、故郷との関係というのは、写真家にとって重大なことではないのか、と私は思っている。私と比べるのはもちろん僭越に過ぎるけれど、ともに東京を愛して生涯にわたって東京を撮り続ける写真家、荒木経惟さんと森山大道さんの違いはそこにあるように私は思う。東京の下町で生まれ育った荒木さんの写真は、東京以外のどこを撮っても、愛憎を含めて、「都会の故郷」であるような気がするし、二十歳を過ぎてから東京に住み始めた森山さんの写真は、「他者の目で愛するもうひとつの故郷」と言ってよいような気がする。

私は東日本各地を転々とする少年時代と青年時代を送ったから、生まれ故郷の盛岡を含めて、どこを撮ってもそこは「もうひとつの故郷」になってしまうと思う。だから、パリでも、母島でも、下北でも、長野県の上田でも、そして盛岡の自宅の前でも、どこで撮っても私の写真は同じなのだと思う。「それがお前の写真の良いところであり悪いところでもある」と以前、誰かに言われたことがある。

それは私も承知していることなのだけれど、それでも、盛岡の盆地から出ない生活というのは息苦しい。この息苦しさをまったく感じることなく、生涯にわたって生まれ故郷で過ごすひとは盛岡に限らずたくさんいるけれど、そんなひとたちと私は決定的に異なるのだと思う。

村上春樹の長編小説には、壁や山に囲まれて外界と隔絶された小さくて美しい町や村がしばしば出てくる。先年出た長編「街とその不確かな壁」を私はまだ読んでいないけれど、これはその集大成であるらしい。こうして盛岡という、盆地の中の小都市にずっと居てその写真を撮り続けていると、私はそんな幻想の中の小さな町に閉じ込められているように感じることがある。他者の目で愛する、私にできることはこれしか無いのだから、私はまた、ささやかでかまわないから旅に出る必要がある。

それでも、今はどこに行ってもスマホ片手に名所めぐりをする観光客ばかりがあふれ返っているらしい。京都のひとが、「ここはテーマパークではないんだ」と言っていたのを私はテレビで見たけれど、もしかしたら、世界中の名所は、今やすべてテーマパークになってしまっているのかもしれない。京都ほどではないけれど、盛岡にもそんな観光客がやって来ている。

大きな美術館に入って別料金を払うと、展示作品の音声ガイド機を貸してくれるけれど、連中はあの感覚で旅行をして名所めぐりをしているのだろうか。彼らはスマホに操られているだけではないのか、と私は思う。

せっかく旅に出ても、あんな連中ばかりが目につくようでは興ざめであるし、そんな連中と一緒にされてはたまらない。だから、もういちど海外旅行に出かけてみたい、という私の望みもしばらくはお預けである。手間ひまかけて、お金をかけて、憧れの場所に行ってみてもそんな連中しかいない、そんな目には遭いたくない。

ささやかであってもよいからまた旅に出たい。そんなねがいがかなうまで、私は今、五十年以上も前に書かれたふたつの旅行記を読み続けている。私が少年の頃によく読んだ畑正憲の「天然記念物の動物たち」と、先日、書店で見つけた宇能鴻一郎の「味な旅 舌の旅 新版」である。

「天然記念物の動物たち」は滅びゆく天然記念物の動物を訪ねて日本中を旅する話であるし、「味な旅 舌の旅」はその土地でしか味わえない美食を求めて日本中を旅する話である。この二冊には美しい景色やひとびととの出会いもあって、旅とは本来こういうものなのだ、ということを教えられる。

考えてみれば、私が好んで旅するようなところは観光地ではない。静かな景色と、その土地でしか味わえない新鮮な食べ物と、なつかしく思えるひととの出会いがある場所である。それに加えて温泉があれば言うことは無い。 そんな所にはスマホに操られた「スモンビ(スマホゾンビ、スマホ中毒者をそう呼ぶらしい)」が押し寄せて来ることも無い。将来、ふたたび海外旅行に行くにしても、私はそんなところに行けばよい。もう二十年以上前、フランスを訪れた時、私はパリを抜け出して詩人ランボーの故郷シャルルビル・メジエールに旅をした。シャルルビル・メジエールはまさにそんな町だった。それを思い出した。

私が十年も住んだもうひとつの故郷、長野県上田市には、元号が令和になってからまだ再訪していない。そろそろまた行くことができると思う。そんなささやかなねがいがかなう頃、村上春樹の「街とその不確かな壁」が文庫に下りてくるのではないかと思う。村上春樹の長編は文庫になってから私は読むことにしているので、これも楽しみである。

私の生まれ故郷である盛岡という小さな町を外から見つめ直す、私にとって必要不可欠で楽しい営みが、ようやくもどってくるのだと思う。

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