春の如く、ふたたび

ウクライナとアメリカの大統領の会談が、そのさなかに急転して決裂した。その様子が世界中に伝えられた。

いったい何が起こっているのか、私にはよく理解できない。人間の欲望がむき出しのまま世の中が急速に便利になって、情報ばかりが津波のように押し寄せて、人間が幼稚になっているのではないか。私はそう考えるしかない。その後、事態は再び急転している。

二十一世紀になって、いつのまにかもう二十五年が過ぎるけれど、世紀の変わり目に、次の世紀は中世の入り口になる、と言っていたひとが何人もいたような気がする。まさにそのとおり、津波のように情報が押し寄せる中で、私たちは今、新しい中世を生き始めているのだろうか。

今はいったい何時なんだろう。ここはいったい何処なんだろう。季節が春を迎えようとする今、私はまたしてもそんなふうな自問にとらわれている。

都会では古くなった設備が崩壊して、思いもよらなかった事故が起こる。地方では毎年のように大災害が起こる。この文章を書き始めた今、大船渡の山火事はまだ鎮火していない。これでは心が晴れるいとまが無い。「鳴動する中世」という言葉を私は思い出す。

日本の歴史の変わり目には必ず大災害があった、という検証を私は読んだことがあるし、あと三十年くらいの間に大地震や大噴火がやってくるのは確実だろう、という見解もある。これを真剣に心配しているひとがどれだけいるのか、私でさえ大いに疑問に思う。

戦時下で暮らすウクライナのひとが「今は心に壁を作って生きています」と語っていた。その大変な困難にはもちろん遠く及ばないけれど、それでも、心に壁を作っておかなければ、今を生きることは困難かもしれない。その、心の壁から外界をかいま見る手段が、私にとっての写真だろうか。そんなふうに考えておかないと、こうして日常の写真を撮ることさえ困難になりかねない。

それでも、私にはそんなふうに悲観する資格は無いのではないか、という気もする。臨床心理学者である河合俊雄氏の本を読んでいると、このひとは、人間の心は急変するもの、ということを身をもって知り抜いている、という印象を受ける。私の人生観とか人間理解なんて吹けば飛ぶようなものだ、と思い知らされる。

京都大学の総長を務めて、あの、日本学術会議をめぐる騒動の直前にその会長を退任された山極寿一先生の本を読んでいると、この先生も人間の心を深く知り抜いている、という印象を受ける。この先生はゴリラの専門家である。机上の空論を振り回す他の学者や政治家とは格が違う。

山極先生が日本学術会議の騒動について怒りの感情を表明されていないのには、アフリカのジャングルで身体を張って続けてきた研究に基づく深い英知があるのだろう。先日、書店で見つけた「京大総長、ゴリラから生き方を学ぶ」という本を私は今読んでいるけれど、ここにそのヒントがたくさん隠されている。

そして、「ドラえもん」のジャイアンのようなアメリカの大統領と駆け引きするウクライナの大統領も、そんな英知をわきまえたひとなのだろう。それは、日本人には想像できないほどの苦難の歴史を歩んできたウクライナのひとびとにもあてはまることだろう。ウクライナのひとびとの気品と美しさは、きっとそれに由来するのだと私は思う。

大災害を生き抜いてきた日本人にも、それとは少し違った種類の強さや気品や美しさが備わっているはずである。それを私は信じていたい。

それにしても、こんなふうな予期せぬ政治の決裂が起こった時、その専門家である政治学者や新聞記者の言うことは真に受けない方がよさそうである。彼らは通り一遍のことしか言えない。そんなものに振り回されていると心が疲れてしまうばかりである。現実は常にそれを越えて進んでゆく。津波のように押し寄せる情報の中で、必要なのはそのほんの一部でしかないのだろう。

とりあえず私は孤独を大事にして春を迎えたい。それがとても幸せなことである、ということくらい私だってわきまえている。

ずっと以前、宮崎駿が養老孟司先生との対談で述べた「今こそ我々は楽しむべきだ」という言葉を私は思い出す。中途半端に悲観しても仕方が無いのだ。

この日常の奥に何か深いものを見つけて、それを大切にすること。写真がそのことを可能にしてくれると私は思っている。そして、クリフォード・ブラウンのトランペットが奏でる素晴らしいバラード「春の如く」を私は聴き直している。

季節だけは確実に進んでゆく。それを見続けることが、もしかしたら、たくさんのひとびとがこうして生き続けているこの世界につながる、ささやかな手続きになるかもしれない。微力だけど無力ではない、という言葉を私は思い出している。

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